LINEで送る

英文修正 人生の後半を生きる

 私は、人はすべて希望を失ってはいけない、いいかえると、明日に夢を持てと言いたい。この夢を持つということが、人生においてどんなに大切なことかわからないと常々考えている。

 私は昔から、非常な夢の持ち主である。だから早くいえば、仕事も一切夢から出ているわけだ。よく人から「あんたの趣味は何ですか」と聞かれるが、私は「私には趣味はないですな。しいていえば、夢が趣味ということになりますかな」と答えることにしている。

 実際、夢ほどすばらしいものはない。空想はいくらでも描けるし、きりがない。広い未開の地に行って、そこの開拓王になることだってできるし、大発明をして社会に非常な貢献をすることもできるし、あるいは巨万の富を持つことも夢では成り立つ。私みたいに芸のないものは、夢でも描かんことにはしょうがないかもしれないが、そういう意味で空想もまた楽しいものだと思っている。これを私の夢の哲学とでも名づけようか。

出典:『仕事の夢 暮しの夢』

 

このことばは昭和三十三年四月、松下幸之助が六十三歳のときに、ある雑誌に寄せたものです。

実際、幸之助の人生は、たえず夢を描き、それを追い求めた軌跡だったといえます。五代自転車店での奉公時代、町を走る市電を見て“これからは電気の時代だ。是非とも電気の仕事をしてみたい”という思いを持ったことが、電気の仕事に携わるきっかけとなります。大阪電灯の配線工時代には、もっと便利なソケットができないかと工夫を重ね、独立してからは、人々に喜んでもらえる電気器具をつくりたいと、新たな製品を次々に考案、開発しました。たとえば電気アイロンなどは、電気の普及に伴いたいへん人気のあるものでしたが、その価格が当時としては容易に買えない五円。そこで幸之助は、多くの家庭で買える電気アイロンをつくりたいと思い立ち、部下にみずからの熱い思いを語って開発を指示します。その結果、短期間に自信の持てる製品ができ、小売りで三円二十銭という半値に近い金額で、たいへんなヒット商品になりました。

また、松下電器を創業して十数年経った昭和七年には、従業員に「産業人の使命は、物資を水道の水のごとく安価無尽蔵に供給して、この世に楽土を建設することである。この真使命を二百五十年かけて達成しよう」という壮大な構想を訴えています。これが社員を奮い立たせ、松下電器は驚くべきスピードで発展していきました。さらに、まだまだ週休二日制など考えられない社会情勢にもかかわらず、昭和三十五年一月の経営方針発表会の席上では、「五年先に週五日制を実施したい」と宣言しています。この発表は全員を驚かせましたが、五年後の昭和四十年四月十六日から、予定どおり実施されています。昭和四十二年の経営方針発表会では、「むこう五年間で欧州の賃金を抜いて、アメリカの賃金に近づけよう」ということを、その意義とともに社員に語りかけたりもしています。

そして晩年になっても幸之助は、その生涯を閉じるまで夢を描き、追い求め続けました。八十二歳のときに夢の日本の姿を語った『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』を著したり、八十四歳のときには、その夢を実現するリーダーの養成のため、私財七十億円を投じて松下政経塾を設立したりしています。

幸之助は「心に描いた夢は、それが妥当性を欠いたものでないかぎり必ず実現する」とも言っていますが、それは幸之助の終生を貫いた信念だったといえるでしょう。

☆『仕事の夢 暮しの夢』のお求めはこちらから仕事の夢暮しの夢表紙

LINEで送る