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英文修正 人生の後半を生きる

ウマ年生まればかりの会である午七会というのがあります。最初にその仲間の植場さん(鉄三・当時呉羽紡績社長)が亡くなったとき、友人総代で、太田垣さん(士郎・当時関西電力会長)が弔辞を読み、次にその太田垣さんが亡くなった。さて、だれが友人総代で弔辞を読むか、となったとき、僕が頼まれました。「待てよ、植場さんの弔辞を読んだ太田垣さんが亡くなった。今回僕が弔辞を読んだら、僕のほうに死ぬ順番が回ってくるんと違うかな」とも思ったけれど、「太田垣さんには大いに知遇をこうむったから、まあそんなことにはとんちゃくしないでおこう」、こうハラを決めて弔辞を読んだものです。もっとも、次に亡くなったのは伊藤さん(武雄・当時大阪商船社長)。なんだか順番が変わったようで、僕はお陰さまでまだ長生きしているのですがね。
 病身の僕が意外と長生きするので、養生訓をたずねられることがあります。僕自身の体験からくる養生訓は、あまり気にしないことだと思っています。長生きしようとも思わず、あなたまかせに生きる、これしかしようがないんですな。

出典:『道は明日に』

 

新約聖書のマタイによる福音書には、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、またからだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません」とあります。また「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」とも述べられています。人は、ともすると物事にとらわれて、悩み、思い煩い、気持ちを暗くしがちです。おそらく聖書は、そうしたことを戒めているのでしょう。
たしかに心配すべきことは心配しなければなりません。そうして適切な策を講じ、それを解消していってこそ進歩発展があり、また新たな道もひらけてきます。しかし、どんなに心配し、思い悩んだところでどうにもならないことも、この世の中にはたくさんあります。そうしたことにいつまでもとらわれていたのでは、ただ気持ちが沈むばかりで、あすを力強く生きていこうという意欲も勇気も湧いてこないでしょう。気にはしても、とらわれ、こだわらないことが大切なのではないでしょうか。
マタイによる福音書には、さらに「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」とあります。心配すればするほど長生きできるのなら、どんどん心配すればいい。しかし実際には心配しすぎは心労となり、病気を招き、運が悪ければかえって寿命を短くしかねません。結局、自分の寿命というのは自分でどうこうできるものではないのです。「ぼくも幸いにして成功した部類に入るのかもしれませんが、これは自分の力ではない、運のおかげである、自分も努力をしたけれど、その努力はせいぜい一割か二割で、大部分は運のためである。そう考えて、あんまりえらそうなことを言ったらあかんと、こう思っているのですよ。ただね、そのときどきでは懸命にやってきた。いま考えても『よくやったな』と自分で自分の頭をなでてやりたい気持ちになれる、それが自分にとって幸せなことだと思いますね」
これは松下幸之助の著書『人生談義』の一節ですが、成功というものも、言ってしまえば九割がたが運、すなわちあなたまかせ、天がさだめるところで、自分の努力はせいぜい一割程度だというのです。 自らの成功や失敗のみならず、寿命まですべて自分に責任があると考えると気が重くなります。人生は一面、あなたまかせ、天まかせと考えてみるのも時には必要なことかもしれません。

 

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