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英文修正 人生の後半を生きる

 最近不良がちょいちょい出ており、皆さんにたいへんご迷惑をかけていることを、私は会社に出て知りました。非常に申しわけないことです。
 今、松下電器(現パナソニック)は、皆さんの期待に添うようにあらゆる点に改善をしようとしております。その改善が、ちょうどはからずも私が会社に出ていたということによりまして、非常に速くできるのではないかという感じがいたします。
 皆も一所懸命に働いてくれておりますから、私があえてそこまでしなくてもいいとは一応思いますが、やはりそうはいかない。こういうふうに隠居も出てこい、お婆さんも出てこいと、みんなが寄って力を結集して、そして最善の道を尽くすのが、時に処するところの態度でなくてはならないと、かように考えているんです。
 非常に天下泰平なときは、隠居は隠居として温泉におっていいと私は思います。しかし、乱に臨んではそうはいかない。分に応じた働きをしなくてはならないのではないかという感じがいたします。

出典:「神奈川ナショナル店会連合会結成記念大会」(昭和39年10月29日)『松下幸之助発言集34』

大正十二年九月一日、神奈川県相模湾沖を震源とする関東大地震が起きました。災害への備えは十分でなく、また現在のような情報網もありません。被害は拡大するばかり。結局、地震のみならず火災、津波、土石流により、死者・行方不明者はおよそ十四万二千八百名、全・半壊の家屋が約二十三万八千戸、焼失した家屋が約四十四万七千戸と、甚大な被害をもたらしました。松下幸之助の著書『私の行き方考え方』には、「明くれば大阪市内は大混乱の態で、なにをおいてもまず関東を救えと官民協力、奔走に移った」と、当時の大阪の様子が記されています。
地震ばかりではありません。昭和九年九月二十一日には、室戸台風が京阪神を襲いました。死者・行方不明者が三千名余り、負傷者およそ一千五百名、全・半壊家屋約八万八千戸、流失家屋は約四千三百戸、浸水家屋となると四十万戸を越えています。この災害に対し、すぐに荒廃した一帯を工業地帯として整備するなど災害復興の都市計画が立てられ、都市計画街路および運河の整備、土地区画整理事業などが実施されました。
しかし、被害の規模から言えば最も大きいのは戦争でしょう。終わってみれば日本の惨敗。町という町は爆撃で焦土と化し、家屋はもとより人的被害もはかりしれず、まさに惨憺たる状態に陥ったのです。しかしここでも日本は復興を果たし、さらに世界中が目をみはるほどの発展をなし遂げます。「明治の初め、ちょんまげを切って文明開化の道に入ってからわずか四十五年にして世界の五大強国の一つになった、その発展の過程と、この戦後の復興とは非常に相似たものがあるようだ。日本人はひとたび困難に直面すれば、必ずやそれに反発して立ち上がる伝統的な精神を先祖から受けついでいる」と幸之助は述べています。
もちろんこれ以外にも数多くの災害、苦難に日本人は遭遇してきました。しかし日本人は、どれほど難しい事態になろうとも、くじけずあきらめず、必ず対処の道を見出し、困難を打開して、以前にまさる発展をなし遂げています。
どうしてそのようなことができたのでしょう。それは、苦難に際し、老若男女を問わず国を挙げて人々の知恵や力を結集してきたからにほかなりません。つまり、皆がそれぞれその分に応じた事柄に懸命に取り組んできた。だからこそ、日本は何度も立ち直ることができたのです。たいへんな苦難に直面している今、まさに皆が力を合わせるときといえましょう。

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