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英文修正 人生の後半を生きる

どちらかといえば老人は社会から遠ざかっているというか、逃避しているのではないか、そういうふうにみえますな。これは社会がそうさせているのか、それとも老人自身の問題なのかは別にして、もう少し老人は、責任をもって社会的な面での活動をつづけることを考えてゆかねばいかんでしょう。老人自身が社会から逃避するというようなことは、これから少しずつでも改めなくてはいかんと思います。
先進国の養老院について、その施設はまことに立派で、そこでは老人が思い思いに、日光浴をしたり互いに語りあって楽しんでいる。日本の養老院も、それをモデルにしてやらねばならないという意見もあります。しかしそういうことをいろいろ紹介されても、私にはそれが必ずしも老人にとって最高のものであるかどうか、疑問に思うのです。
それよりも、国全体を見わたしてみたとき、老人それぞれが、社会的な立場で、分に応じた活動を、自主的につづけている。そういう姿のほうが、むしろ好ましい社会ではないか、私にはそう思えてならんのですよ。

出典:「提談・新しい日本のために」『PHP』(昭和51年8月号)

 以前にも類した話を取り上げましたが、松下幸之助は、働かなくても安楽に暮らせることが幸せとは考えていませんでした。例えば、生活の心配をする必要がなく、日がな一日、趣味や遊びに興じられる姿を高齢者福祉の理想とする考え方に、次のように疑問を投げかけています。「老後になればいかなる人といえども、平等に国がこれを保障するんだという考え方は、理論の上からは非常に望ましいことでありますが、しかし実際の人間の感情からいくと、はたしてそれがいいのかどうか。これについては、考えねばならない問題がある」そしてその人間の感情については、一面として「やはり人間というものは、自分がこつこつと働いて、自分の生活を切り開いていく。そこに苦心がある、困難がある。その困難を切り開いていくところに生きがいを感じる」ものではないかというのです。
どんな仕事にも責任が伴い、それをまっとうできなければ、他に迷惑をかけてしまいます。そう考えると、ときにその責任が大きな負担となり、過度なストレスを生むかもしれません。また、働いていれば、苦労を余儀なくされます。仕事上の人間関係で思い悩むことも少なくないでしょう。こうしたことを数え上げれば、〝できるなら働かず、毎日遊んで暮らしたい〟と思う人がいてもおかしくはありません。
しかし一方で、何一つ責任のある仕事をすることなく、ただ毎日遊んで暮らすという生活の中に、ほんとうに生きがいや幸せがあるのかどうか、松下幸之助の指摘の通り疑問が残ります。身近な例でいえば、自分の足で山頂まで登り切ったときの爽快感や達成感は、ロープウェイを使って労せずして山頂に立った人には決して味わえないものでしょう。同じ景色が目に映るとしても、恐らく心にはそれぞれ違った景色が映っているように思えます。私たちの人生もこれと同じで、何歳になろうとも、自分の力で生き抜く、つまり社会の一員として責任ある仕事をもつことではじめて生きがい、生きる張り合い、あるいは喜びや幸福感を得ることができるのではないでしょうか。
ともすると、社会通念に従い、年齢を経ればあとは早々に現役を引退し、悠々自適に暮らすほうがよいと考えがちです。しかしこう見てくると、自分自身のため、社会のために、自らの力に応じ精一杯働いていくという姿のほうが、より好ましいともいえるでしょう。

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