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自分の利益のみ、物欲のみ、本能のみに生きているという自分本位の姿では、これは動物と同じである。人間が、単に知識ある動物に成り下がってはいけないと思う。
人間というものは、場合によっては自分の欲望を節してでも他のために働きうるという面を、ある程度もっているはずである。あらゆる点にということでなくとも、事柄によってはそういうことをなしうるというところに、人間としての値打ちがあるのではないだろうか。

(「人間の値打ち」『思うまま』)

 

自国ファーストを宣言する政治家が当たり前になってきました。投票権を持つ人が喜びそうな公約を打ち出すのは当然です。投票する人にしても、自分たちにとって有益で都合のいい人を選ぶのは自然なことだと思います。

これは政治家に限りません。例えば多くの経営者が当然ながら自社ファーストの経営を行っています。会社の利益にならない経営によって無配ともなれば、株主からたいへんな非難を受けます。従業員、労働組合からも突き上げがあるかもしれません。経営者失格の烙印を押されることにもなるでしょう。しかし自社ファーストで経営を行っていれば、経営者自身の立場も待遇も守られます。当たり前のことですが、職責を全うすることは自分ファーストにもなるわけです。

自分第一、自分の家族第一、自分の勤め先、町、国が第一であることは決して悪いことではありません。自分のために頑張るのは、生物に共通した本能です。そうした積み重ねが、今日まで生命を永らえさせたとも考えられます。自分ファースト、大いに結構です。否定どころかむしろ推奨されてしかるべき考え方と言えます。

しかし見方を変えると、自分ファーストが常に最優先でよいともかぎらないでしょう。人として、ときに他者ファースト、社会ファーストということもあってしかるべきではないでしょうか。

イギリスの哲学者トーマス・ホッブズは、社会が形成される以前の自然状態というものを仮定した場合、「人は人に対して狼となる」と考えました。言い換えれば「万人の万人に対する戦い」であり、そうならないように私たちは社会契約を結んでいるというのです。つまり誰もが自分ファーストで生きようとすれば人はお互いに相争うことになってしまう。だから社会の中で約束事をつくりお互いをけん制、あるいは守り合っているというわけですが、これは納得できる見方です。

この世界の富(食料、お金、宝飾品、土地等など)は限られています。誰よりも豊かになろうとすれば、自ずと他の人の富は減ります。また誰よりも権力を持とうとすれば、当然他の人の権利(自由)は制限されます。その結果はどうなるでしょうか。貧富の差、身分の差が大きくなり、歴史上それらはしばしば内乱や革命、争いにつながっています。これまでこうしたことを何度も繰り返してきたにもかかわらず、昨今、世界中で再び同じことが起こっているように思えます。法治国家だ、先進国だと自称している国々でさえも、人間の利己的な思いにはあがなえず、極貧の虐げられた人々は増える一方です。

自国ファーストの場合、たえず他国を上回る力を求めることになります。また自国の富になるのであれば、都合の良いように環境問題も人権問題も解釈するでしょう。当然、軍事力の増強に余念がなくなるのは言うまでもないでしょう。他国の人々がいかに飢え苦しもうと関心をもたないでしょうし、血を流し合い争っている姿を目にしても対岸の火でしかなく、自国に火の粉が降りかからないかぎり関与しないように思います。

こうした流れがそのまま続けば、遅かれ早かれ人類の終末がやってくるかもしれません。それでよいのでしょうか。

ここで大事なのが、自国ファースト、自分ファーストがどんな場合も常に最優先ではないということです。自分の私利私欲を抑制し、場合によっては他国や他者ファーストを考える。そこにも人間のあるべき姿があるはずです。

多くの先人がこうした点について教えを残してくれています。私たちは“わかっている”“知っている”という前に、謙虚にその教えに今一度耳を傾け、肝に銘じる必要があるように思います。そうしてはじめて私たちは、真に人間として生きていくことができるのではないでしょうか。自分も大事、他人も大事、皆で調和を図りつつ豊かに幸せに暮らせるよう努めるのが人間の知恵ではないかと思います。皆さんはいかがお考えになりますか。

経営理念研究本部 主席研究員 大江 弘

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