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人生は芝居のごとし。

上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。

とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし。

(教育者 福沢諭吉『福翁自伝』)

 

まだ小学生の折に、自分の葬式の夢を見たことがあります。それが一つのきっかけとなり、私は漠然とした死への恐怖を感じるようになりました。怖がりだったこともあって、それ以来「なぜ死ななければならないのか」「人生とは何か」「生きる意味はあるか」などの問いが頭から離れなくなってしまい、高校生の頃には身近にあった人生論や仏教、キリスト教の宗教書等に触れはじめ、大学では哲学を専攻しました。

しかし哲学や倫理学では、「人生とは何か」に対する答えはなかなか見つけることができません。このころには臨床心理学やスピリチュアル思想、東洋の新々宗教にも手を広げ、また当時の若者の流行であったインドに一か月ほど滞在。アシュラム(ヨガ道場)にも行きました。いくつもの感銘的な教えに出会いましたが、私にはどうしても得心できない。幾千年にわたり多くの人間が求め続けてきた問いです。そう簡単に凡人の私に見つけられるはずもありません。

それでもこの問いから離れられず、ある時には“しょせん死んでしまえばすべて終わり”と厭世的になり、ある時には”人生は無意味だ”と虚無感に襲われ投げやりになり、また鬱々とした気分に陥っては無気力になるなど、今なおうんざりするほど心がかき乱され続けています。「人生不可解なり」という言葉を遺して自死に至った人もいましたが、実際の理由はともかくとして、人生に絶望し、生きる意義が見出せず、自ら命を絶つ人は今日も決し少なくないように思います。

私を含めこうした神経質あるいは偏屈な人間にとって、「あまり人生を重く見ず」という言葉にはハッとさせられます。宇宙の時間の流れから考えれば人間の一生などほんの一瞬。また一人の人間にできることなどたかが知れています。この世界を大きくひっくり返すほどものではありません。そう考えると、「人生とは何か」などと大上段に振りかぶって生きることが馬鹿らしくなってきます。ある種の達観でしょうか。少し救われた気がするのは私だけではないと思います。

一方、生きていれば自ずと多くの欲が湧いてきます。しかし、欲はその性格上、完全に満たされることはありません。例えば、欲には食欲等生存に関わるものから、“もっとお金持ちになりたい”“もっと偉くなりたい”“人から愛されたい”という卑近なものや、“神様のために尽くせる人になりたい”“悟りをひらきたい”“社会、人の役に立ちたい”といった高尚なものまであります。それらのいずれの欲であろうともこれで十分ということはないでしょう。やはり“もっと。もっと”と追いかけるのが欲にほかなりません。

たしかに無欲という言葉はありますが、それが可能なのは(本当に可能かどうか私には疑問ですが……)聖人だけではないでしょうか。また「足るを知る」という教えもあります。しかしこれもそう簡単なことではありません。多くの人にはなかなか困難だと思います。皆いつも不満を覚えたまま暮らしている気がします。

さて、往々にして私たちがしてしまうのが他者との比較です。例えば人生というお芝居の中で、“自分には主役をやる力がある。どうしてこんなわき役なんだ”、あるいは“彼は力もないのに主役に抜擢されている。こんなおかしなことはない”などと愚痴をこぼすことは珍しくはないでしょう。他人と比較して欲求不満を強めてしまうわけです。しかし考えてみれば、運の強さや運命は一人ひとりみな違っています。恵まれた環境の下で生を享ける人がいればそうでない人もいます。一面を比べれば、この世は理不尽なことのほうが多いのがあるがままの姿でしょう。苛立ったところで何が変わるわけでもありません。心を悩ますだけ無意味ではないでしょうか。

人生は長くはありません。まさに光陰矢の如しの言葉の通り過ぎ去っていきます。そうした人生において、お金持ちになれないだの、出世して偉くなれないだの、悟りが拓けないだの、光が当たる主役でないだのと文句を言ってみてもどうなるものでもないでしょう。人生の貴重な時間を無駄遣いしているだけです。

もちろん人生を真剣に深く探求することにも意味があると思います。しかし、それにとらわれ思い悩んでばかりで何も行動しなければその意味すらありません。実際に自分の人生を力強く生きることが何より欠かせないのです。

まずは懸命に生きてみる。真剣に精一杯生きてみる。どこかで生き方を間違ったと思えばその段階で修正し、また生き抜いていく。堅苦しく考えて動けなくなるより、そのほうがどれほど良いかわかりません。

お互いの命、人生、運命はすべて天与のものです。否応なしに事前に与えられたものであり、自分ではどうすることもできません。しかしこれからの歩みについては少なからず自分自身で決めることができる面があります。人生とは思い悩むためにあるのではなく、生きるためにある。お互いに生きて、生きて、生きて、生き抜こうではありませんか。

経営理念研究本部 主席研究員 大江 弘

 

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